親の孤立、児童虐待といった問題に対して官民双方から色々な対策が取られている。しかし多様性の尊重・個の時代・若者の人口集中という大きな力は育てる人間の減少と孤立を進めており、すぐに止まりそうにはない。
個人の人格についてTraitsとStatesの両要因が認められるようになった21世紀ではあるものの、子育てという問題に関しては親の安定したTraitsとその産物としての安定した人格に対する世間の期待値が未だ高く、親である(/になる)ということの息苦しさは耐え難いものとなり、少子化として現れている。 この状況は親だけでなく、子どもにとっても息苦しいものとなっている。生みの親ではない従来の育て親、つまり親戚、学校、地域のようなコミュニティの利用・干渉が難しくなってきたことで機会の不平等、貧困の連鎖、子どもの権利の侵害には歯止めがかからなくなっている。 セーフティネットの利用・干渉が難しくなっていくこの潮流の中では、子育てをする親/したいと思う大人/される子を「親権の呪い」の集中から解放するアプローチも効果的ではないだろうか?人格とそれを決定する一要因のStatesには揺らぎ(Fluctuation)があることを認め、大人が親になる/を辞めることを意思に基づいて選択できる、そんなシステムを時代の大きな流れに乗せることは可能だろうか? そんな問いを繰り返す中で私は「所有から利用へ」というLiberationを親権にも適用できないかと考えるようになった。 親権サブスクリプションの特徴
Pro, Benefit
Con, Risk
養子縁組など日米の現行制度とこのシステムの大きな違いは以下の2点。
児童相談所の援助や一時保護、里親制度など日米の現行制度とこのシステムの大きな違いは以下の2点。
「高齢者×子育て」モデルの事業、社会実験もよく見るようになったが、それらとの違いは次の点。
親権サブスクリプションは、そもそも現行法では実現できない。しかも親権のやり取りを"手軽"にしてしまう過激に聞こえるため、生みの親と子の"絆"を神聖視する人々がアナフィラキシーショックを起こすかもしれない。しかし以下の点を考えると、非現実的な極論とも言いきれないのではないだろうか。
「ひとはひと」の時代、コミュニティの制振機能に頼らずに各個人、各家庭のブレをいかにマッチさせ分散させるべきか、という視点で子育てについて再考できた。無慈悲な親権という責任・義務で首を絞められる構図の解消に繋がるアイデアがもっと増えると嬉しい。また副産物として、社会の分断と共感機能の衰弱が相互作用しているこの時代に反行できる可能性も見えてきた。世界を見せると期待されたインターネットはむしろ究極のエコーチェンバーと判明したが、子育てを通してオフラインのランダムな多様性を体感することは今後もできるかもしれない。
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